

HACCPの導入率が低いので、厚生労働省がその向上に向けて検討しているというニュースを見ました。HACCP実施率が上がると食中毒は減るのでしょうか?
HACCPは世界中で導入されている優れた衛生管理の仕組みです。日本でも2021年からHACCPに沿った衛生管理が義務化されました。
そのため、HACCPの実施率を高めることは、食品安全の向上にとって重要な取組であることは間違いありません。



しかし、ここで注意しなければならない点があります。HACCPは、食品安全を実現するための「手段」であって、それ自体が目的ではないということです。
つまり、「HACCP実施率が向上」という事実だけで、食品安全が確保されているとは限りません。
例えば、次のような食品工場を想像してみてください。
あなたは監査員として、ある食品工場に立ち入りました。その施設では次のような状況が確認できます。
- HACCPの書類は整備されている
- 手順書やマニュアルもきちんと作成されている
- 毎日の記録も適切につけられている
- 従業員教育も定期的に行われている
- 現場を観察しても、従業員は手順どおりに手洗いをしている
- 従業員への聞き取りでも、手洗いの手順や頻度について正しい知識を持っている
このような施設であれば、「HACCPを実施している」となり、監査結果は「最も良い評価」になるかもしれません。



では、実際の現場ではルールはどの程度守られているのでしょうか。
従業員は、ルールがあっても、正しい衛生知識を持っていても、日々の作業の中では、その通りに行動していないことがあります。
また、監査の場や第三者の目がある状況では衛生行動が改善しても、日常の作業では元の習慣に戻ってしまうこともあります。
つまり、食品安全において本当に重要なのは、書類や記録が整っていることではなく、従業員が実際にどのように行動しているかです。
そこでこの記事では、具体的な事例をもとに、HACCPという仕組みの実施率だけを見ていても、最終的な目的である「食中毒を減らす」ことに必ずしも結びつくとは限らないという点について考えてみたいと思います。
カメラが明らかにした手洗いの実態
「従業員が実際にどのように行動しているのか」を調べるために、カメラに録画された映像を用いることがあります。
イギリスで行われた研究では、食品工場に設置されたカメラ映像約15時間分を分析し、食品取扱者の「手洗い」の実態を調査しました。


この工場では、パイ、サンドイッチ、サラダなどのRTE(Ready-to-Eat)食品を製造しています。



これらの食品は加熱せずにそのまま食べられるため、製造中の衛生管理、特に手洗いは非常に重要ですね。
この工場では、製造区域に入る前に次のような手洗い手順が定められていました。
手洗い手順
- 袖を手首から約7〜8cm上までまくる
- 膝でレバーを押して蛇口を開け、手を水で十分に濡らす
- ディスペンサーから石けんを取り、手のひら、手首、指の間など手全体に広げる
- 20秒間しっかり泡立てる
- 温水で石けんが完全に落ちるまですすぐ
- ペーパータオルまたはハンドドライヤーで乾燥させる
- 手指消毒剤を手全体に均等にすり込む
つまり、ルールとしては十分に整備されていました。


工場にはすでにカメラが設置されていましたが、その主な目的は防犯で、衛生行動の確認には使われていませんでした。
そこで、研究者は製造区域に入る前の部屋に設置されていたカメラの映像を分析することにしました。ただし、従業員がカメラによる調査を意識して行動を変えてしまうことを避けるため、そのカメラに過去に録画されていた映像を使いました。
分析の結果、観察された手洗い時間は1秒から71秒まで大きくばらつき、96%の手洗いが推奨される20秒未満でした。
さらに、
- 手を濡らさずに石けんを使用
- 手のすべての部位をこすっていない
- 手乾燥後に消毒剤を使用していない
といった行動も確認されました。
最終的に、製造区域に入る前に観察された手洗いの98%以上が、工場のルールに適合していませんでした。
つまり、この工場では手洗いのルールは存在していたものの、実際にはほとんど守られていなかったということです。
そして、この現象はこの工場だけの問題ではありません。別の施設で行われた研究でも、同様に手洗いのルールと実際の行動の間に大きなギャップ(98%が不適合)があったことが報告されています。



この結果から分かるのは、ルールや知識があったとしても、それが実際の現場で守られているとは限らないということです。
特に、人の目がない日常の作業では手順が省略されてしまうことがあります。そして、このような不順守は、通常の監査や立入検査だけでは見つけることが難しいです。



RTE食品を製造する施設では、手洗いが適切に実施されなければ食中毒のリスクが高まりますね。
体調不良でも働いてしまう実情
病原体に感染している人、または病原体を保菌している人が食品を取り扱うことは、飲食店で発生する食中毒の大きな要因の一つです。



ある調査では、飲食店で発生する食中毒の最大3分の2が感染した食品取扱者に関連していると報告されています。
そのためアメリカでは、食品取扱者が嘔吐や下痢などの症状がある場合、責任者に報告し、責任者は従業員を働かせない、または業務を制限しなければならないというルールが定められています。
では、実際の現場ではどうなのでしょうか。
アメリカで行われた研究では、飲食店で働く491人の従業員に対して聞き取り調査が行われました。
その結果、多くの従業員は
- 病気のまま働くと感染を広げる可能性がある
- 嘔吐や下痢の症状がある場合は働くべきではない
ということを理解していました。
しかし、それにもかかわらず、約20%の従業員が、過去1年の間に嘔吐や下痢の症状がある状態で働いた経験があると回答しました。



つまり、従業員は感染リスクを理解していたにもかかわらず、実際の行動はそれと一致していなかったのですね。


さらに、この問題は従業員だけに限りません。
別の研究では、飲食店の責任者426人に対して聞き取り調査が行われました。
その結果、約70%の責任者が「体調不良のまま働いた経験がある」と回答しました。さらに、約10%は吐き気や胃腸炎などの症状がある状態で働いていたと答えています。
責任者が休めない背景には、次のような複合的な要因がありました。
- 強い責任感や職業倫理
- 深刻な人手不足
- 「これくらいなら大丈夫」という自己判断
つまり、責任者自身も食中毒のリスクを理解しているにもかかわらず、職場の状況がそれを許さないという現実があります。
責任者は、本来であれば体調不良の従業員を休ませるべき立場にあります。しかし、その責任者自身も体調不良のまま働いてしまうことがあるのです。
このことは、体調不良時に働いてしまう問題が、ルールの有無や従業員の知識だけで決まるものではないことを示しています。



実際の行動は、職場環境や組織の仕組みにも大きく左右されるということです。
おわりに
本記事では、HACCPを実施しているという事実だけでは、必ずしも食中毒の防止につながらない可能性があることを、2つの事例から紹介しました。
近年の食品安全研究では、食中毒の原因の多くが「衛生管理の仕組みや施設の不備」だけでなく、現場での人の行動と深く関係していることが指摘されています。
そのため海外の行政機関では、HACCPなどの「仕組み」や施設の「衛生状態」だけを見る監視から、組織文化も含めて確認する監視へと変わりつつあります。
例えば、豪州・ニュージーランド食品基準機関では、保健所の監視員が事業者と対話を行うことで、その事業者の食品安全文化がどの段階(成熟度)にあるかを評価する 食品安全文化評価ツール を公開しています。
このような手法は、従業員の実際の行動を理解し、改善につなげるための重要な手がかりになります。
しかし、行政機関や第三者機関による食品安全文化の評価にも限界があります。



監視のときだけ「正しい回答」や「良い行動」を示しても、日常の現場ではそのとおりにやっていないことがあるのですね。
そのため食品安全文化を向上させるには、ルールや教育だけでなく、食品事業者自身が現場で実際に起きている行動を理解し、継続的に改善していくことが重要になります。
HACCPの仕組みを整えることは重要ですが、それだけで食品安全が守られるわけではありません。
実際の食品安全は、書類や記録の中ではなく、現場で働く従業員の行動の中に存在しています。



従業員の行動をどう理解し、どう変えていくかが、これからの食品安全の重要なポイントなのだと思います。









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