従業員の行動を変える何か具体的な方法はないかな。
前回の記事では、教育訓練は「従業員の行動を変える」視点に立つことが重要と紹介しました。
大変好評で多くの方から「参考になった」という声をいただきました。一方で、もっと具体的に「従業員の行動を変える」方法を知りたいという声もありました。
そこで今回の記事では、「従業員の行動を変える」方法について、より活用しやすい事例を紹介したいと思います。
この記事では、「Food Safety = Behavior: 30 Proven Techniques to Enhance Employee Compliance」(食品安全 = 行動:従業員のコンプライアンスを高める実証された30のテクニック)(2015年)という本の内容を紹介します。
前回の記事で紹介したフランク・ヤーナス氏(元FDA副長官)の別の著書です。
前回紹介した本は、食品安全文化の考え方を解説する本でした。今回紹介する本は、より実践的に従業員の行動を変えるためのテクニック集になっています。
今回は、この本の中から私が厳選した3つの事例を紹介します。
「何を着るか」は自分の行動にも影響する
「Dress for success」(成功のための身だしなみ)や「You will never get a second chance to make the first impression 」(第一印象を与えるチャンスは二度とない)など、外見の大切さを表す言葉は多くあります。
しかし、外見(特に服装)は人に与える印象以上に、食品安全において重要な意味があるかもしれません。
ここではAdam博士らによって行われた2つの実験を紹介します。
最初の実験では、大学生を2つのグループに分け、課題に取り組んでもらいました。それぞれのグループの違いは服装です。
グループ1:研究室で着るような「白衣」を着てもらったグループ
グループ2:「白衣」を着ず、私服のままのグループ
実験の結果は、白衣を着たグループの誤答率は、白衣を着なかったグループよりも50%近く低くなりました。言い換えると、私服のグループは、白衣を着たグループの約2倍のミスを犯したということです。
先ほどの実験で結果に違いが生じたのは、「白衣」というイメージのせいなのか、それとも白衣を着たからなのかを確認するため博士らは次の実験を行いました。
学生を3つのグループに分け、課題に取り組んでもらいました。それぞれのグループの違いは以下のとおりです。
グループ1:「医師用」の白衣と伝え、白衣を着てもらったグループ
グループ2:「芸術画家用」の白衣と伝え、白衣を着てもらったグループ(1と同じ白衣)
グループ3:「医師用」の白衣と伝え、それを見たグループ(1と同じ白衣)
結果は、グループ1:「医師用」の白衣と伝え、白衣を着てもらったグループが最も良い成績を収めました。
この結果では、白衣の持つ医師のイメージとともに、実際に白衣を着ることで、被験者の注意深さ、慎重さ、集中力などに影響を与えたということです。
この考え方は「Enclothed cognition」(着衣認知理論)と呼ばれています。
食品安全にどのように利用すればよいのでしょうか。
通常、私たちが従業員の服装に注意を払う理由は、外部の人が見た際の清潔さ、そして異物混入や汚染の防止のためです。
しかし、上記の実験では、従業員が着る服は、食品を取り扱う際の注意深さ、慎重さ、集中力などに影響を与える可能性があることを示しています。
つまり、制服が従業員の「行動」に影響を与えるかもしれないということです。
この考え方を踏まえ、以下のようなことを検討してもよいかもしれません。
- プロフェッショナルな雰囲気がある制服を着た際に、従業員の行動にどのような影響を与えることができるのか。
- 逆に服装に決まりがなく、自由な服装で作業してもよい場合、食品安全に関するコンプライアンスは低下するのか。
- また、「食品安全責任者」と書かれた制服を着ることで、望ましい食品安全行動を推進することができるのか。
いずれにせよ、「何を着るか」は相手に与える印象だけでなく、着る人に対しても影響を与えるということです。
些細な乱れが大きな乱れにつながる
「割れ窓理論」(Broken Window Theory)を聞いたことはありますか。
1枚の割られた窓ガラスをそのままにしていると、さらに割られる窓ガラスが増え、いずれ街全体が荒廃してしまうという、アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリング博士が提唱した理論。
かつて、犯罪多発都市ニューヨーク市で、1994年以降、当時のジュリアーニ市長が、この「割れ窓理論」を実践。割れ窓の修理や落書きなど軽微な犯罪の取締りを強化した結果、犯罪が大幅に減少したと言われています。
京都府「割れ窓理論」実践運動
この割れ窓理論を裏付ける実験が2008年にKeizer博士らによって行われました。
ショッピングモールの買い物客が自転車を止める路地がありました。研究者たちは、その路地に止まっている自転車のハンドルバーに、店の広告をゴムバンドで貼り付けました。
その後研究者たちは、(A)路地をそのままにした、(B)路地に落書きをした、の2つのパターンで実験を行いました。
(実際の路地の状況はこちらから見ることができます。)
この路地にはゴミ箱がありません。そのため、ショッピングモールから戻ってきた買い物客は、広告を持ち帰るか、または路地にポイ捨てするかしかありませんでした。
それでは「ポイ捨て」が多かったのは (A)と(B) どちらのグループだったでしょうか。
結果は、(A)グループでは自転車所有者の33%がハンドルに貼った広告を地面にポイ捨てしました。一方、路地が落書きされた(B)グループでは自転車所有者の69%がポイ捨てをしました。
つまり、周囲に落書きがあった(B)の方が2倍以上ポイ捨てしたということです。
この実験から、他人が社会規範やルールに違反していることを人々が観察すると、他の規範やルールにも違反しやすくなり、それが無秩序の広がりを引き起こすことがわかりました。
食品安全にどのように利用すればよいのでしょうか。
施設内に些細な汚れ、乱雑さ、補修が必要な床や壁、故障した機械、一部の従業員の不適切な行動などがあったとします。
これらはもしかすると、施設全体のコンプライアンスに対して影響を与え、従業員の望ましくない行動をさらに引き起こす可能性があります。
そのため、施設の責任者は、どの程度まで「窓が割れていること」を許容するのかについて、私たちが思っている以上に慎重に判断しなければいけないということです。
成功・失敗 どちらからより有用な経験を学べるのか
私たちは日々従業員の教育訓練を行っています。
教育訓練により、正しい食品安全の取り組みが行えるようになり、より良いサービスを提供し、ミスを減らし、他社との競争力を高めることができると信じています。
しかし、全ての教育訓練が効果的かと言われると、そうではありません。
自分が受けた教育訓練を思い返してみても、長時間で効果がない、退屈な、つまらない研修に参加したことがあるのではないでしょうか。
しかし、もし知識、技術、そして最も重要な「経験」を同時に与えることができる教育訓練方法があるとしたら信じますか。
Joung博士らが行った実験は、消防士向けの教育プログラムの受講者を2つのグループに分け、講師の過去の経験を踏まえた事例検討を行いました。
グループ1:誤った選択により悲劇を起こした「失敗の事例」を紹介
グループ2:失敗は紹介せず、正しい選択をした「成功の事例」を紹介
一つのグループには誤りとその結果を強調し、もう一方のグループには成功した正しい選択を強調しました。
教育プログラムの後、受講者は問題解決と技術力評価のための課題が与えられました。課題はグループ1、2ともに同じ内容です。
結果は、グループ1の参加者の方が、グループ2の参加者を上回りました。さらに、研修後の評価でも、グループ1の参加者の方が判断力や適応力のテストにおいて、高い成績を収めました。
つまり、成功例よりも、他人の失敗例から学ぶ方がより効果的だったということです。
食品安全にどのように利用すればよいのでしょうか。
教育訓練の目的は「正しい」やり方、知識を従業員に伝えて、その通りにやってもらうことです。そして、それはとても大切なことです。
しかし、この実験からも分かるように、「正しい」だけではなく、「間違った」事例を伝えることで、参加者により役に立つ経験を積ませることができます。
もし、私たちが日々行っている研修プログラムが単に「正しい」知識を与えるだけのものであれば、自身であったり、他人の過去の失敗事例も伝える内容を含めるよう再検討した方がよいかもしれません。
以上が、従業員の行動に影響を与える「行動科学」の3つの活用事例の紹介でした。
この本のように、人の行動に影響を与える考え方(行動科学)で有名なものと言えば、2017年にリチャード・セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞した「ナッジ理論」があります。
ナッジ理論も「人の行動を変える」という点で、今回紹介した本と同じ考え方です。
最後にフランク・ヤーナス氏がこの本を書いた目的を紹介したいと思います。
Remember, despite the fact that thousands of employees have been trained in food safety around the world, millions of dollars have been spent globally on food safety research, and countless inspections and tests have been performed at home and abroad, food safety remains a significant public health challenge.
Why is that? I believe it’s because we, as food safety professionals, need to include additional tools in our toolbox, besides the traditional tools of training, inspections, and testing.
世界中で何千人もの従業員が食品安全の訓練を受け、食品安全の研究に世界全体で何百万ドルも費やされ、国内外で数え切れないほどの立ち入り検査や試験が実施されているにもかかわらず、食品安全は依然として公衆衛生上の重大な課題となっています。
それはなぜか?それは、私たち食品安全の専門家が、訓練、立ち入り検査、試験といった従来のツールに加え、さらなるツールを道具箱に入れる必要があるからだと私は考えている。
Frank Yiannas, Food Safety = Behavior 30 Proven Techniques to Enhance Employee Compliance
そして、そのツールがまさに「行動科学」の視点であり、「食品安全文化」です。
アメリカにおいては今後10年間の計画の中で「食品安全文化」が重点事項に入っています。EUにおいても、食品安全文化は事業者が順守しなければならない基準となっています。
このように、欧米では食品安全に新たな技術を取り入れるだけでなく、今まであまり注意が向けられてこなかった「人の行動」にも焦点が当てられ始めています。
そのためフランク・ヤーナス氏が言うように、私たち食品安全の専門家は、従来のハードサイエンス(微生物学、食品化学、HACCP)だけでなく、ソフトサイエンス(行動科学)についても、学び、実践に取り入れていかなければいけないと思います。
コメント