食品安全を守るのは保健所か、それとも弁護士か?――アメリカの食中毒訴訟から考える「食品安全へのインセンティブ」

食品安全を守るのは保健所か、それとも弁護士か?――アメリカの食中毒訴訟から考える「食品安全へのインセンティブ」

全米で発生している食中毒で、まだ汚染源が調査中にもかかわらず、被害者による訴訟が起こされたというニュースを見ました。アメリカでは食中毒訴訟が日本より一般的ですね。

食中毒が発生すると、まず保健所などによる行政調査が行われ、原因食品や原因施設の特定、営業停止、食品の回収など、行政による対応が進められます。

それでは、食中毒によって実際に被害を受けた人は、どうなるのでしょうか。

入院した。
仕事を休まなければならなくなった。
長期的な後遺症が残った。
子どもを失った。
家族を失った。

そうした被害に対して、誰が、どのように責任を負うのでしょうか。

その一つの答えが、「訴訟」です。

アメリカでは、食中毒の被害者が訴訟を通じて食品企業に損害賠償を求めることが、日本よりも一般的です。

そして重要なのは、食中毒訴訟が単なる「被害者へのお金の支払い」にとどまらないことです。

訴訟は場合によっては、企業にとって大きな経済的リスクとなり、「食中毒を起こしてから対応するより、起こさないために食品安全へ投資した方がいい」というインセンティブになることがあります。

そこでこの記事では、食中毒訴訟による被害者救済、食品安全へのインセンティブについて、アメリカと日本を比較したいと思います。

目次

食品安全の「コスト」vs 食中毒が起きたときの「コスト」

食品安全対策には、お金がかかります。

設備の増設・改修
従業員教育
原材料・製品の検査
第三者認証の取得

これらはすべて企業にとって「コスト」です。

chicken testing

それでは、企業はなぜ食品安全にお金をかけるのでしょうか。

米国農務省(USDA)の研究では、食品安全への投資を促す力として、「規制」、「市場」、「訴訟」という3つの側面が指摘されています。

1.行政による規制

一つ目は、行政による規制です。

HACCP、施設基準、衛生管理基準、営業許可、行政処分などがこれに当たります。

ルールに違反すれば、行政指導や行政処分などを受ける可能性があります。つまり、「ルールを守らなければコストが発生する」という力です。

2.市場からの評価

二つ目は、市場からの評価です。

食中毒を起こせば、消費者が離れるかもしれません。取引先から契約を打ち切られるかもしれません。ブランドイメージが低下するかもしれません。

つまり、「食中毒を起こせば、商品が売れなくなる」という市場からの圧力です。

3.訴訟リスク

そして三つ目が、今回の記事で考えたい「訴訟」です。

食中毒によって被害を受けた人から、損害賠償を請求される可能性があります。

さらに、訴訟になれば、弁護士費用、調査費用、和解金や賠償金など、さまざまなコストが発生する可能性があります。

つまり、「事故を起こせば、訴訟によって大きな経済的損失を負うかもしれない」という力です。


これら3つの力は言い換えれば、食品安全への投資は企業にとって、

「事故を防ぐために先にお金を使うのか、それとも事故が起きてからコストを負担するのか」

という経営判断でもあります。

そして、アメリカでは3つ目の力「訴訟リスク」が、日本と比べて強いという特徴があります。

アメリカの事例――Jack in the Box食中毒事件

アメリカにおける食中毒訴訟を考えるうえで、非常に重要な事件があります。

1993年、全米第5位の規模を誇るハンバーガーチェーン「Jack in the Box」で、腸管出血性大腸菌O157に汚染されたビーフパティによる大規模な食中毒が発生しました。

patties

最終的に73店舗で700人以上が発症し、4人の子どもが死亡しました。

その中でも深刻な被害を受けた一人が、当時9歳だったBrianne Kinerさんです。

BrianneさんはO157に感染後、HUS(溶血性尿毒症症候群)を発症し、42日間にわたって昏睡状態となりました。

入院期間は189日におよび、その後も糖尿病、脳障害、腎臓の問題など、長期的な健康被害が残りました。

Brianneさんの家族を代理したのが、後に食中毒訴訟の分野で最も有名な弁護士となる「ビル・マーラー氏」です。

ビル・マーラー氏は食品安全専門のニュースサイト「Food Safety News」の設立者で、アメリカの食品安全業界では知らない人がいないほど有名な食中毒訴訟専門の弁護士です。

1995年、Brianneさんについて、ワシントン州史上最高額の個人傷害和解となる1,560万ドル(当時で約15億円)の和解が成立しました。

また、マーラー氏によれば、この食中毒に関連する個人訴訟や集団訴訟では、和解額が合計5,000万ドル(約50億円)を超えました。

(左)議会で証言するビル・マーラー氏 (右)1,560万ドルの和解金を得た当時の新聞記事(marlerclark

そして、企業への負担は賠償金だけではありませんでした。

マーラー氏によると、Jack in the Boxは食中毒発生後の約1年半で、訴訟費用や売上減少などにより、約1億6,000万ドルの損失を被りました。

そしてJack in the Boxでは、この事件を契機としてHACCPの導入やサプライチェーン管理など、自社の食品安全システムを大きく改善しました。

事件の損失の10%でも事前に食品安全に投資していれば、この事故は防げたかもしれないですね。

そして、この事件の影響はJack in the Boxだけにとどまりませんでした。

  • USDAが牛ひき肉中のO157を「adulterant(不適格・有害な混入物)」と位置付けた
  • 食肉業界へのHACCP導入が進んだ
  • 牛肉の微生物管理や検査体制が強化された

など、食品安全政策や食品業界の取り組みに大きな変化が起こりました。


ただし、「Jack in the Box事件の訴訟によってアメリカの食品安全が変わった」 と単純に考えることはできませんので注意してください。

実際には、

食中毒の発生
 ↓
行政による調査、メディア報道、消費者からの批判、訴訟、政治的な圧力
 ↓
企業・行政による対策強化

というように、さまざまな力が重なり合って変化が生まれたと言えます。

しかし、その中でも「訴訟」は特に重要な役割を果たしましたと考えられています

訴訟によって被害の実態や企業の対応が法廷で争われることで、事件が長期間にわたってメディアで報道され、社会の注目を集めました。

それにより、食品安全規制改革への政治的圧力を強め、企業・行政による食品安全対策の強化につながりました。

つまり、訴訟はこの転換の重要な「圧力」の一つだったと言えます。

日本の事例――焼肉酒家えびすのユッケ食中毒

それでは、日本ではどうでしょうか。

日本における食品安全の大きな転換点となった事件として、2011年に発生した「焼肉酒家えびす」のユッケによる食中毒があります。

腸管出血性大腸菌に汚染されたユッケなどを原因として、181人が発症し、34人がHUSや急性脳症を発症、5人が死亡しました。

(画像:チューリップテレビ 2023年7月14日(金))

事件後、運営会社は営業を停止し、その後、営業を再開することなく廃業しました。

被害者への補償や損害賠償も行われましたが、被害の大きさを考えると、必ずしも十分な救済とはいえませんでした。

  • 2014年、運営会社が被害者150人に対して、損害の一部として約8100万円を補償
  • 2017年、肉の卸売業者との間で和解が成立し、同社の保険金約1億円が被害者119人に分配
  • 2018年、死亡した被害者の遺族らが起こした裁判で、東京地裁が運営会社に対して約1億6,900万円の支払いを命令

実際、被害者遺族の家族は以下のように述べています。

「事件で変わったことは食品衛生法の改正くらい。お金が出て行く一方だった」とこぼす。1日遅れの誕生日祝いに店を訪れ、ユッケを食べた大貴君は闘病の末、半年後に亡くなった。長年、フーズ社などに謝罪を求めて裁判などに関わってきたが、今回分配された資産は、和解金と合わせても、かかった費用の半分に満たない。

ユッケ集団食中毒から13年、被害者救済は進まず…遺族「金銭的にも精神的にも負担大きい」, 読売新聞オンライン, 2024/04/30

Jack in the Boxの事件と同様に、社会的の大きな注目を集めたにもかかわらず、被害者は金銭面でほとんど救済されなかったのですね。

この事件の後、日本における食品安全の代表的な変化は「生食用食肉(牛ユッケ)の規格基準」が作られたことです。

ただし、この規制には訴訟は影響しておらず、大規模な健康被害→メディアによる社会問題化→既存制度の不備の露呈→強制力のある規制への転換が起きたと考えられます

もちろん、訴訟が全く意味を持たなかったということではありません。被害者にとっては、自らの被害に対する責任を問うための重要な手段でした。

ただし、食品安全制度を変えるという観点では、この変化は訴訟よりも行政主導の影響が大きかったと考えられます。

そして、これほどの大きな事件であったにもかかわらず、現在でも「ローストビーフ」「レアステーキ」「レアハンバーグ」などと称した加熱不十分な食肉を原因とする腸管出血性大腸菌による食中毒が依然として発生しています。

レアステーキ丼(画像:山陰山陽

アメリカと日本は何が違うのか?

それでは、なぜ食中毒訴訟が食品安全への圧力として働く仕組みが、アメリカでは日本よりも強いのでしょうか。

大きな違いとして、以下の4点が挙げられます。

  1. 集団訴訟(クラスアクション)
  2. 懲罰的損害賠償
  3. 原告側専門弁護士
  4. ディスカバリー

集団訴訟(クラスアクション)

同じ被害を受けた多数の消費者を代表して、一部の原告が訴訟を起こす制度です。

集団訴訟ではアメリカでは原則として「オプトアウト」となっています。これは、もし訴訟から外れたい場合は、自分で「私は参加しません」と手続をしなければなりません。

そのため、被害者は何もしなくても自動的に訴訟対象集団に含まれます。

多数の被害者が一つの訴訟にまとまるため、企業にとっては賠償額が非常に大きくなる可能性があります。

例えば、1人の損害が5,000円でも、被害者100万人いた場合、50億円となるため、企業は集団訴訟とならないように激しく争います。

一方、日本の集団訴訟は消費者自身の参加(オプトイン)が必要で、適用対象も限定的です。

そのため、日本で大規模な食中毒が発生したからといって、アメリカと同じように企業が巨大な集団訴訟を直ちに恐れる状況にはなりにくいと考えられます。

懲罰的損害賠償

日本の損害賠償は、基本的に被害者が受けた損害を補填することが目的です。

一方、アメリカでは、企業の行為が特に悪質な場合、被害者への補償とは別に、企業を罰し、将来の同様の行為を抑止することを目的とする懲罰的損害賠償が認められる場合があります。

例えば、アメリカのホテルの食事が原因で発生した赤痢菌による食中毒事件では、

  • 衛生問題が繰り返し発生していた
  • 従業員から赤痢菌が検出されたことをホテル側が知っていた
  • それにもかかわらず宿泊客に知らせなかった

という事情などから、補償的損害賠償37万5,000ドルに加え、懲罰的損害賠償50万ドルが認められました。

このような制度があることで、企業が危険性を認識しながら放置した場合には、非常に大きな経済的リスクを負う可能性があります。

一方、日本では懲罰的損害賠償は、原則認められていません

原告側専門弁護士

もう一つ重要なのが、アメリカに存在する原告側専門弁護士です。

日本では聞いたことがないと思いますが、アメリカには 食中毒を専門に扱う弁護士が存在します。

こうした弁護士の中には、着手金を取らず、成功報酬型で事件を引き受ける場合があり、被害者は費用を負担することなく、訴訟を起こすことができます。

さらに、大規模な食中毒事件では、弁護士が疫学者、微生物学者、医師などと協力し、企業の責任を独自に調査することもあります。

ここで重要になるのが、次の「ディスカバリー」です。

ディスカバリー

日本の裁判をイメージすると、「裁判で必要な証拠は、原告が自分で集めて裁判所に提出する」というイメージが強いと思います。

ところがアメリカの民事訴訟では、裁判の前段階で、「あなたが持っている、この事件に関係する情報を見せてください」と相手方に求めることができます。

これが「ディスカバリー」です。

例えば、食中毒が発生した際に、原告側の弁護士が食品会社に対して、

「このハンバーグについて、製造日の温度記録を出してください」

「その日に実施した微生物検査の結果を出してください」

「この製品について従業員から寄せられていた苦情を出してください」

「食品安全担当者と工場長との間の関連するメールを出してください」

などと求めることができます。

そのため、アメリカでは「行政が原因を確定してから、被害者が訴訟を起こす」という順番だけではなく、行政調査と民事訴訟が並行して進むこともあります。

この制度により、企業にとっては、訴訟になれば自社の食品安全管理や意思決定について詳しく調べられる可能性があるため、「食品安全をきちんとやっておこう」というインセンティブになります。

一方、日本では、まず保健所などによる行政調査が行われ、原因となった施設や食品が特定された後に、被害者が損害賠償を求めるというケースが多いのが実情です。

そして、日本にも「文書提出命令」という制度があります。

しかし、これは裁判所が必要と認めた特定の文書について提出を命じる制度で、アメリカのディスカバリーのように、当事者が相手方に幅広く情報や証拠の開示を求める仕組みとは大きく異なります。

つまり、アメリカでは「訴訟を通じて、企業の中で何が起きていたのかを被害者側が調べていく」ことが比較的可能なのに対し、日本ではそのような仕組みが限定的です。

「訴訟が多ければ食品安全が向上する」とも限らない

アメリカでは訴訟が食品安全へのインセンティブになることが分かりました。それでは、訴訟が増えれば、食品安全が向上するのですか。

実は「訴訟が増えれば食品安全が向上する」というほど単純な話ではありません。

食中毒患者が訴訟で勝つためには、食べた食品と病気との因果関係などを立証する必要があります。

しかし、食中毒では原因食品の特定や因果関係の立証が、必ずしも簡単ではありません。

また、軽症の場合には、時間や費用をかけて訴訟をするメリットが小さいこともあります。

USDAの研究でも、1988~1997年に裁判で解決された175件の食中毒訴訟のうち、企業から何らかの補償を受けた原告は31%に留まりました。

つまり、「食中毒になったら、訴訟を起こせば必ず補償される」というわけではないということです。

しかし、訴訟が「事故を起こしてから対応するより、事故を起こさないために先に投資した方が合理的だ」と企業に考えてもらうための、一つの重要なインセンティブであることは間違いありません。

おわりに

以上、日米における訴訟の果たす役割の違いを紹介しました。

最後に食中毒訴訟を専門とするビル・マーラー氏の記事の一節を紹介します。

繰り返し発生するカンタロープ(メロン)による食中毒について、次のように書いています。

We have the science. We have the outbreak history. We have the body count. What we don’t seem to have is the political will to treat this fruit with the seriousness it demands.

Until the boardrooms decide that a sick child is more expensive than a clean packing facility — and they will, eventually, because I will keep showing them the invoices — the cantaloupe outbreaks will continue.

I’ve been doing this for over 30 years. I’d love nothing more than to stop.

(筆者訳)

科学的な知見も集まっています。過去の食中毒の歴史もあります。多くの犠牲者も出ているのです。それにもかかわらず、欠けているように思えるのは、この果物をしかるべき深刻さをもって扱おうとする経営層の意思です。

病気になった子ども一人にかかるコストのほうが、衛生的な梱包施設を整えるコストよりも高くつく——経営陣がそう判断するその時まで、カンタロープによる食中毒は終わらないでしょう。そして、彼らもいずれはそう気づくはずです。なぜなら、私が彼らに請求書(訴訟費用、賠償金、医療費など)を突きつけ続けるからです。

私はこの仕事を30年以上続けてきました。できることなら、もうこんな仕事をしなくて済む日が来てほしい。それ以上に望むことはありません。

Cantaloupe, America’s Most Predictable Killer – Salmonella or Listeria? By Bill Marler on May 21, 2026 (Marler Blog)

この言葉は、食品安全へのインセンティブを考えるうえで、とても示唆的だと思います。

食品事業者の多くが「病気になった子ども一人にかかるコストより、衛生的な施設を整えるコストのほうが高くつく」と考えているうちは、食中毒はなくなりません。

そのような食品事業者の意識を「食品安全に投資しないことのほうが、結果的には高くつく」と変える手段の一つが「訴訟」と言えます。

過度な訴訟社会化は防衛的コストの増大や製品価格への転嫁といったデメリットも生みますが、行政主導に偏りがちな日本の制度において、『民間の力で安全投資のインセンティブを高める仕組み』として学ぶべき点は非常に多いと言えます。

そして、ビル・マーラー氏が最後の一文で言っているように、本当に必要なことは「訴訟を起こすこと」ではなく、「訴訟を必要としないほど食品安全が当たり前になること」なのです。

日本においても、企業が「食品安全に投資するほうが合理的だ」と判断せざる得なくなる ビル・マーラー氏のような弁護士の存在が必要なのかもしれません。

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