

日本の食品事業者のHACCP導入率が8割という記事を見ました。これだけ導入率が上がっているのだから、日本の食品は以前より確実に安全になっているのですね。
食品衛生法の改正によって「HACCPに沿った衛生管理」が制度化され、日本の食品事業者にHACCPが広く普及したことは、食品衛生行政における大きな変化です。
制度化から5年が経過したことから、現在、厚生労働省では「HACCPに沿った衛生管理」を含む食品衛生法改正の効果や課題について、見直しや今後の対策が検討されています。
冒頭の「HACCP導入率が8割」は、厚生労働省が食品衛生法改正の効果を検証し、今後の課題を把握するために実施した委託事業のアンケート調査における、食品事業者の自己申告による結果です。
また、厚生労働省が令和8年7月に公表した「平成30年食品衛生法改正の施行後5年を目途とした検討のとりまとめ」では、今後の課題の一つとして「HACCP導入率が伸び悩んでいること」が挙げられています。
つまり、「HACCP導入率」は、食品衛生法改正の効果や今後の課題を考えるうえで重要な政策指標の一つになっています。



HACCPが普及すること自体は重要です。しかし、HACCP導入率を指標とするのであれば、注意しなければならないことがあります。
HACCPは、食品安全を実現するための「手段」であって、「目的」ではありません。
たとえHACCP導入率が100%になったとしても、それだけで日本の食品安全が向上したことにはならないのです。
なぜなら、「HACCPを導入しているか」と、「HACCPによって食品安全上のリスクが実際に低減しているか」は、別の問題だからです。
そして、「HACCP導入率を高めること」そのものが、いつの間にか食品安全の目標になってしまうことについても注意する必要があります。
もし、測定しやすい「HACCP導入率」という数字を追い続けることで、食品事業者や行政の行動がその数字を高めることに集中するようになったら、どのようなことが起こるのでしょうか。
そのヒントになるのが、アメリカで現在行われているリステリア管理をめぐる議論と、「Goodhart’s Law(グッドハートの法則)」です。
「リステリアが検出されない」と「リステリアを管理できている」は同じではない
まず、アメリカの事例を見てみましょう。
アメリカでは、RTE(Ready-to-Eat)食品におけるListeria monocytogenes(リステリア・モノサイトゲネス)について、「ゼロ・トレランス」(製品から検出してはならない)という非常に厳しい規制が取られてきました。
そのため、食品事業者にとって「リステリアの陽性結果」は、リコールや行政対応、経済的損失、ブランドイメージへの影響につながる非常に繊細な問題です。
ここには、リステリア管理ならではの難しさがあります。
リステリアは製造環境に「潜伏」し、増殖した後に食品を二次汚染する可能性があります。


そのため、最終製品の検査だけでは十分ではなく、製造環境のふき取り検査(環境モニタリング)によって、潜んでいるリステリアを早期に発見することが重要です。
環境モニタリングでリステリアを発見したら、
環境モニタリング
↓
陽性を発見
↓
「なぜ見つかったのか」を徹底調査
↓
定着場所・侵入経路・拡散経路を特定
↓
洗浄・衛生管理を改善
↓
再発を防止
というサイクルを回します。
つまり、環境モニタリングの目的は、積極的にリステリアを見つけ、除去し、管理方法を改善することです。



ところが、陽性結果に対して過剰なペナルティが発生する仕組みになっていると、食品事業者に意図しないインセンティブが生じる可能性があります。
それは
「積極的に検査してリステリアを見つけるより、リステリアを見つけないほうが得なのではないか」
という考え方です。
「陽性ゼロ」は、本当に安全なのか?
この問題について、リステリア研究の第一人者であるマーティン・ウィードマン教授は、2026年8月にFDAが開催した リステリア予防に関する会議 で、興味深い事例を紹介しました。
ある小規模施設では、事業者が年間約300検体もの環境ふき取り検査を実施していたにもかかわらず、リステリアが一度も検出されませんでした。
ところが、研究者が同じ施設からわずか50検体を採取したところ、3検体からリステリアが検出されたというのです。
この事例が示しているのは、単純な「陽性率」だけでは、施設のリステリア管理能力を評価できないということです。
ウィードマン教授は、食品事業者がリステリアを見つけ、それを管理することを促す仕組みが必要であり、陽性結果だけに過剰に反応すると、施設側が「リステリアを見つけないための検査」をするようになってしまう可能性を指摘しました。
つまり、
「陽性率0%」を目標にすることで、いつの間にか「リステリアを管理する」ことではなく、「陽性を出さない」ことが目的になってしまう
可能性があります。
そして、低レベルのリステリアが見つからないまま放置されれば、リステリアが定着・拡大し、より大きな食品安全上のリスクにつながる恐れがあります。
ここから得られる重要な教訓は、
「リステリアが検出されないこと」と「リステリアを管理できていること」は同じではない
ということです。



「リステリア陽性率0%」という数字だけでは、十分に検査して管理した結果なのか、それとも十分に探していないからなのかが分からないのですね。



むしろ、適切な環境モニタリングを実施している施設では、陽性が見つかることもあります。重要なのは、陽性が見つかった後に何をするかです。
「なぜ見つかったのか」を調べ、汚染源や経路を特定し、衛生管理を改善する。そして、その後の検査によって改善できたかを確認する。
つまり、陽性結果そのものが失敗なのではありません。陽性結果から学び、衛生管理の改善につなげられないことのほうが問題なのです。
これは、前章で紹介した「HACCP導入率100%を目指す」ことにも通じる考え方です。
HACCPを「導入しているか、していないか」という数字だけで評価するのではなく、
「HACCPという仕組みを使って、実際に食品安全上のリスクを低減できているか」
を見る必要があります。
Goodhart’s Law(グッドハートの法則)とは?
ここで Goodhart’s Law(グッドハートの法則)を紹介します。
イギリスの経済学者チャールズ・グッドハートにちなんで名付けられた考え方で、簡単に言えば、
ある指標が目標になると、その指標は良い指標ではなくなる
というものです。
少し分かりにくいので、学校を例に考えてみましょう。


学校の本来の目的が、「子どもたちの学力を高めること」だったとします。
ところが、学校を評価するために、「生徒の偏差値がどれだけ上がったか」という指標が使われるようになったら、どうなるでしょうか。
学校の評価が偏差値で決まるのであれば、学校にとって合理的なのは、「どうすれば子どもたちの本当の学力が伸びるのか?」ではなく、「どうすれば偏差値を上げられるのか?」を考えることになります。
すると、例えば、
- テスト対策に授業時間を集中させる
- テストの点数を上げるためのテクニックを教える
- 過去問を大量に解かせる
- 偏差値に影響しにくい科目や活動を減らす
といった行動が増えるかもしれません。
その結果、 偏差値 52 → 58 となれば、学校は「指標を改善した」と評価されます。



しかし、それだけで本当に「子どもたちの学力が向上した」と言えるでしょうか。
テストで良い点を取るための訓練に最適化した結果、偏差値は上がっても、学んだことを理解し、初めて見る問題に応用したり、自分で考えたりする力まで向上したとは限りません。
つまり、「学力を高める」という目標のために使っていた「偏差値」という指標が、いつの間にか「偏差値を上げる」という目標に置き換わってしまったのです。
これが、グッドハートの法則の考え方です。
ここで重要なのは、偏差値という指標そのものが悪いわけではないということです。
偏差値は、生徒の学力を評価するうえで一定の意味を持つ指標です。
問題は、「本当に達成したいもの」ではなく、「測定しやすい数字」が目標になってしまうことです。
そして、目標になった数字を人や組織が達成しようとすると、その数字を良くするために行動を最適化するようになります。
これは、食品安全でも同じことが起こり得ます。
「HACCP導入率」を追い続けると何が起こるのか?
それでは、グッドハートの法則を、冒頭で紹介した「HACCP導入率」に当てはめて考えてみましょう。
まず、食品安全の最終的な目的は、食品による健康被害を減らすことです。
HACCPは、その目的を達成するための食品安全管理の仕組みの一つです。食品安全上の危害を分析し、重要な工程を管理することで、食品安全上のリスクを低減することを目指します。
そして「HACCPを導入している食品事業者の割合」を見ること事態は、HACCPの普及状況を把握するための指標としては合理的です。
HACCPを導入していない事業者が多いのであれば、まずHACCPを普及させる必要があるからです。



問題は、この「指標」がいつの間にか「目標」に置き換わってしまったときです。
例えば、次のようなことが起こる可能性があります。
本来の目的:食品安全上のリスクを低減する
↓
そのために「HACCP導入率」を測る
↓
「HACCP導入率を高めること」が目標になる
↓
HACCP計画、記録、チェックリストなどを整え、「HACCPを導入している」という状態を作ることが優先される
↓
HACCP導入率は高くなるが、現場の行動や食品安全上のリスクが必ずしも改善しない
という構造です。
もちろん、これは「HACCP計画や記録を作ることに意味がない」という話ではありません。
HACCP計画も記録も、食品安全を管理するために必要なツールです。
しかし、「計画がある」「記録がある」ということだけで、HACCPが実際に機能しているとは限りません。
厚生労働省が「HACCP導入率をもっと高くしよう」と考えれば、地方自治体や食品事業者が、その数字を改善しようとするのは自然なことです。
そして、もし「HACCPを導入している」という評価が、
- HACCP計画を作成している
- 手順書を整備している
- 記録を作成している
- チェックリストを埋めている
といった「書類が整っているかどうか」に強く依存するのであれば、現場では「HACCPを導入している状態を作ること」が優先される恐れがあります。
すると、「実際に食品安全をどう改善するか」よりも、「HACCPを実施しているように見える状態をどう作るか」が重視されてしまいます。





HACCPを導入している状態を、3つの段階に分けて考えると分かりやすくなります。
HACCPの計画や記録などの書類が整っている
↓
HACCPが現場で実際に運用されている
↓
その結果、食品安全上のリスクが低減している
本当に重要なのは、最終的な「食品安全上のリスクが低減している」という結果です。
しかし、リスクがどの程度低減したのかを直接測定することは簡単ではありません。
一方で、「HACCPの計画があるか」「記録が作成されているか」といったことは、比較的簡単に確認できます。
そのため、測定しやすい「書類がある」という状態を目標にしてしまうと、「書類を整えること」ことに力が注がれるようになる恐れがあります。
これは、先ほどのリステリアの例とよく似ています。
「リステリアを管理する」ことが目的なのに、「陽性ゼロ」が目標になる。しかし、「リステリア陽性率0%」だからといって、リステリアを適切に管理できているとは限りません。



「HACCP導入率100%」になったとしても、それだけでは、現場でHACCPが本当に機能しているかまでは分からないということですね。
どの現場でも同じ罠に陥る恐れがある
ここまで、リステリアとHACCPを例に、「測定するための指標」が「達成すべき目標」に変わると、組織の行動そのものが変わってしまう可能性があることを見てきました。
実は、同じようなことは食品安全のどの現場でも起こりえます。
例えば、以下のようなKPI(重要業績評価指標:Key Performance Indicator)を設定している食品事業者の方も多いのではないでしょうか。
- CCP逸脱ゼロ
- 監査指摘ゼロ
- クレームゼロ
- ヒヤリハットゼロ
- 食品安全上の問題報告ゼロ
例えば、「年間ヒヤリハット報告件数0件」をKPIにしたとします。
本来なら、
ヒヤリハット発見
↓
報告
↓
原因を調査
↓
改善
↓
同じ問題を繰り返さない
という流れを期待しているはずです。
ところが、「0件」が目標になると、現場では「問題を見つけて報告するより、見つけないほうがよい」というインセンティブが働く恐れがあります。
その結果、
ヒヤリハット発見
↓
報告すると評価が下がる
↓
報告しない
↓
ヒヤリハット0件
という状態が生まれる可能性があります。
この場合、「ヒヤリハット0件」という数字は改善しています。しかし、実際に食品安全が改善したとは限りません。
問題が減ったのではなく、「問題が報告されなくなった」だけかもしれないからです。
「数字+現場+結果」で食品安全を見る



それでは、KPIなどの指標を使わないほうがいいのでしょうか。



もちろん、そうではありません。問題なのはKPIそのものではなく、一つの数字を「食品安全そのもの」と取り違えてしまうことです。
食品安全を評価するときには、複数の指標を組み合わせ、実際の現場で何が起きているのかを確認し、さらに問題が発見・報告され、それが改善につながっているかを見ることが重要です。
HACCPを例にすると、食品安全は次の3つの段階で考えることができます。
① Leading indicators(先行指標):安全を守れる状態になっているか
まず見るのは、「食品安全を守るための行動や組織の状態ができているか」です。例えば、
- 教育
- 力量評価
- 手洗いなどの安全行動
- 従業員からの問題提起
- 経営者の食品安全への関与
- 改善活動
などです。
② Process indicators(プロセス指標):仕組みが実際に機能しているか
次に、「作った食品安全の仕組みが、現場で実際に機能しているか」を見ます。
- CCP管理
- 環境モニタリング
- 清掃
- 是正措置
- 内部監査
- 温度管理
などです。
③ Lagging Indicators(結果指標):最終的にどうなったか
そして最後に、「その取り組みの結果、食品安全上のリスクが低減しているか」を見ます。
- 食中毒
- 病原微生物
- 異物
- アレルゲン事故
- クレーム
- リコール
などです。
重要なのは、①、②、③を別々に見ることではありません。
「安全を守れる状態」がつくられ、それによって「食品安全の仕組み」が実際に機能し、その結果として「食品安全上のリスクが低減する」という ①→②→③のつながりを見ることです。
例えば、
教育受講率100%
↓
しかし、現場で手順を守っていない
↓
さらに、逸脱や問題が報告されていない
のであれば、「教育を100%実施した」という数字だけでは、食品安全が向上したとは判断できません。
一方で、次のようなケースもあります。
ヒヤリハット報告が増える
↓
原因分析・是正が行われる
↓
安全な行動が改善する
↓
最終的に食品安全上のリスクが低減する
この場合、一時的に「ヒヤリハット件数」という数字が増えたとしても、食品安全の仕組みが悪化したとは限りません。
むしろ、これまで見えていなかった問題が発見され、改善につながっている可能性があります。
だからこそ、食品安全を見るときには、「問題が何件あったか」だけを見るのではなく、「問題を発見できたか」「報告できたか」「原因を分析したか」「改善につなげたか」まで見る必要があります。
なぜ今「食品安全文化」が重要なのか
ここまで考えると、現在欧米諸国で取り入れられている「食品安全文化(Food Safety Culture)」がなぜ重要なのかが見えてきます。
食品安全文化で見ようとしているのは、単に「会社にHACCP計画がありますか?」ということではありません。
むしろ
- 現場の従業員は、なぜその管理が必要なのか理解しているか?
- 問題を発見したとき、隠さず報告できる環境になっているか?
- 生産性や納期よりも食品安全を優先できる状況になっているか?
- 監督者が見ていなくても、安全な行動を取るのか?
- 発見された問題を、組織の改善につなげているか?
といった、組織の考え方や日々の行動を見ていきます。
これは、まさに先ほど紹介した ①→②→③のつながりを見ることです。そして、数字だけを見ていても分かりにくい部分です。
だからこそ、食品安全の評価対象を、
書類
↓
仕組み
↓
現場の行動
↓
組織の学習と改善
へと広げていく必要があります。
HACCPの導入率や監査指摘件数などの数字は、食品安全を考えるうえで重要な「ものさし」です。
しかし、ものさしだけを見ていては、その数字の背後にある現場の行動や組織の状態までは分かりません。
ここに、HACCP制度化後の食品安全を考えるうえで、「食品安全文化」の視点を取り入れることの理由があるのではないでしょうか。
おわりに
HACCP導入率は、食品安全を改善するための仕組みが、どれだけ広がったのかを見るための指標です。
一方で、それだけでは、HACCPが現場で実際に機能しているのか、食品安全上のリスクが本当に低減しているのかまでは分かりません。
これは、「リステリア管理」や「HACCP導入率」だけでなく、食品安全のさまざまな場面で起こりえることです。
グッドハートの法則が示しているのは、指標が目標になると、その数字を良くすること自体が目的になってしまうということです。
だからこそ食品安全では、「数字」だけを見るのではなく、「現場」と「結果」まで見ることが重要です。
そして、問題を「ゼロ」にすることだけを目指すのではなく、問題を発見し、報告し、原因を調べ、改善につなげる組織を評価することも大切です。
一見すると「ヒヤリハットが増えた」「監査で問題が見つかった」という数字は、悪化しているように見えるかもしれません。
しかし、それは問題を隠すのではなく、問題を発見して改善できる組織になった結果かもしれません。



食品安全を本当に改善するためには、数字を良くすることだけを目指すのではなく、その数字の背後にある現場の行動や組織の状態まで見て、改善につなげていくことが重要なのだと思います。









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